路傍の水

日々 絵や創作のこと

創作SS:右側に立つ人

出囃子の音に急き立てられ、暗い舞台袖から光の当たる舞台の真ん中、すっくと立つマイクの元へ向かった。最前列のお客さんの顔が舞台のライトに照らされて、どんな表情をしているのかもわかる。拍手に気圧されている暇はない。さあ、口を開け。考えに考え抜いて、練習して、打ち合わせを重ねた。大丈夫や。自分の左側からはいつもそこにある体温が感じられた。こいつも緊張してんねや。そんなん俺もや。何年経ってもこの瞬間は緊張するわ。

16年の付き合いのうち、こいつの右側に立っていたのは一体そのうちの何割になるのか。冗談じゃなく9割を超えてるんじゃないか。寝てる間は計算から外すとして、休みの1人の時間と、女といる時間と、後輩連れて飲んでる時間と、実家帰って家族と過ごしてる時間。それ以外はずっとこいつの隣に立って、打ち合わせしたり、舞台に立って漫才したり、テレビのロケ行ったり、あるいはコメンテーターとかガヤとかでテレビのスタジオで座っていた。大勢で飲みに行くことになったときもなんとなくこいつの右が定位置だった。先輩には「普通コンビで並ばへんで!」と笑われもしたが、「一番仲ええのが隣におるんやからええやんか、なあ」と相方に話しかけてみたら、酒が回っていつもより饒舌になった相方が、「せや、お前が隣におらんと俺、落ち着かへんねん!」と真っ赤な顔をくしゃくしゃにして言ったので、こいつの隣には俺がおったらなあかんのや、と若い時分には思ったりもしたものだった。
おかげでこいつ以外と歩くときも、左側に人がいないと落ち着かないようになっていた。俺の左腕の皮膚は確実に敏感になっていて、冷たさや熱さをいちはやく察知したし、耳も左耳のほうがよく聞こえた。左側にある障害物にはすぐに気づけるくらい、左目は動きに反応する速度が速くもなった。「職業病ってありますか?」って質問をラジオの仕事の最中に貰ったからこの話をしたら、相方も「俺もや!」と自分の右側が発達してることを仕切りに話しだして、これは2人にしか伝わらない話だから、芸人としては公共のラジオで流すもんとちゃうやろうな、と思っていたものの結局楽しくてこの話題を引きずりすぎ、曲を流す時間が短くなってしまった。

そんな相方が結婚すると言った。お互い彼女が居たことは知っていた。結婚が向いているようなタイプの人間じゃお互いなかったし、こんな安定しない職業だからと結婚の話題が仲間内で出ても「まだええかなあ」なんて言い合っていた。30を超えてもお互いに結婚の気配もなかったため、当然俺は掌返しをされた心地だった。お前もまだええかなあって言うてたやんけ、と言う言葉が頭の中でぐらぐらぐらぐら、やがてグツグツ沸き起こってボコボコと泡になって口に出た時には「おめでとう!!」という言葉になっていた。さすが16年も喋ることを仕事にしてきただけあるわ、と自画自賛した。同い年の相方が結婚したから、俺も結婚せな、という焦りよりも、初めて感じた強い焦燥は「こいつの隣に別の奴が立つ」ということだった。
わかっているからだ、こいつだって俺と同じだから、必ず人の左側に立ちたがることを。嫁と歩くときも嫁を右に立たせるんやろが。やめろや、やめろや、それは俺が16年おった場所やぞ。これからも仕事の間はずっと俺がそこに立つんやぞ。

長年連れ添った相方として、勿論俺は結婚式に招待されたし、結構な大役を任された。スピーチの練習なんかを仕事の合間にやったりしたら「もっと気楽でええんやって」と相方に笑われた。何わろとんねん、お前の結婚式やから真剣に考えとるんやろが。お前は1人でも充分社会でやっていける人間だった。頭の回転は速いし、考えはしっかりしてるし、勉強もできるし、何より努力の天才だった。とことん突き抜けてまで自分の決めたことをやり通せるところを尊敬していた。こいつとならどんなことでもやり通せる、そんな直感だけで、普通の社会の道からお笑いなんて浮ついた世界に引きずり込んでしまった。あの時の面食らった顔は一生忘れない。「お笑いなんかわかれへんし、人の前に立つの好きちゃうし」と渋るそいつを口説きに口説いて、俺の隣に立たせた。そのことに後悔なんてしたことはないが、引け目はあった。普通に就職した方がもっと稼げたんちゃうか、とか、もっとええ出会いがあったんちゃうかとか、相方が周りから言われているのを知っていた。結婚せんといつまでも子供みたいなことして、と言われたのは相方だけじゃなかった。金銭的なことよりも、精神的に苦しいことは何度もありました。でもそれを乗り越えることができたのは隣におったのがお前やったからで、やっぱりこの世界に引きずり込んだのは間違いやなかったと思ってます。
そんなお前のことやから、幸せにできると確信を持ってやっと結婚を決めたんやと思います。普通よりはきっとずっと長かったけど、僕はそれが何より嬉しいですーー考えていたものとは違う、そんなスピーチがいつのまにか口から出ていた。
結婚式の最中、挙式も披露宴も、相方はいつもと反対の、花嫁の右側にずっと立っていた。

「ありがとうな。」
「こっちこそええスピーチやったし、盛り上げてくれてほんまありがとう」
「ちゃうねん、俺ずっと、お前は花嫁を右側に立たせると思ててんやんか。そっちが舞台の位置の定位置やろ?それやったら俺、あんなスピーチでけへんかったと思うねん。」
「……お前、知らへんのか?」
「何がや?」
「花嫁はゲストに向かって左側って、決まってんねんで。」