陽炎<1>

彼の家は、神戸の郊外の人家もまばらな里山のふもとに建っていた。明治の頃に建てられた百坪ほどの広い家は、悪くなったところから直し直し住み継がれていた。当時にしては珍しい石造りの客間や、庭の大きな柿の木は家が建った当時から変わらずそこにあるものだった。

朝から降っていた雨は、正午を過ぎると段々小降りになって来た。激しく音を立てていた軒先の鎖樋が静かになったのを聞き、”山陽本線”は横たえていた身体をゆっくりと起き上がらせた。

彼の背中の、肩甲骨あたりから腰にかけての一帯には大きな火傷の痕があった。白い肌が赤銅色に変色し、引きつっている皮膚に痛みはもうない。しかし毎年、梅雨が明けるころから次第に傷は疼きだし、八月になると、一層背中は熱を持ち、焼けるようにジリジリと鈍い痛みが昼夜通して続くのだった。

背中が擦れると全身に痺れが走るほど痛むので、仰向けで眠れず、反ったり屈んだりして背中を動かしても痛むので服を着るのも一苦労だった。膿みはしないが、鼓動に合わせて傷のずっと奥から悪いものが滲みだしてくる心地がした。

肌着一枚だったところに、ようやっと麻のシャツを一枚羽織ると、水を飲みに土間へ降りた。床には板が敷いてあるが、今風の、いろいろな機能のついたカウンター式キッチンにしたいという彼の妹の要望は受け入れられず、最低限の機能のみの簡素な台所だった。

蛇口を捻ると冷えた水が勢いよく出て彼の手を濡らした。ステンレスのパイプは外気との気温差で汗をかいた。雨が弱まったのを示すように、蝉の音が次第に強くなるのを聞きながら、コップ一杯の水を飲み干した。

家のなかはしんとしている。家の近くには”彼の”線路が走っているのと、家に住むものが腹を満たすためだけの少しの田畑があるだけだった。その田畑からも誰かがいる気配はなかった。

コップを濯ぎ、手を拭っていると、背中がより一層痛み始めた。思わず呻き、流しの縁を掴む。背中の傷跡は、彼が平静であることを拒んでいるようだった。

 

 

彼が背中に傷を負ったのは、70年以上も前のことだ。戦火も激しく、本土襲撃が始まったあの頃も、人家のない彼の家の一帯は静かなものだった。町には出るなと、彼は彼の親なる存在からよくよく言われていた。昭和20年の3月には、空襲によって神戸駅の周辺は焼け野原と化していた。神戸駅でよく会った彼の幼馴染も、彼同様田舎へ引っ込められているらしく、もうしばらく会っていなかった。

戦争が拡大していくにつれて、彼が運ぶものは人より貨物が多くなっていた。不要不急の旅行が制限され、一般の通勤通学者よりも優先されて運ばれたのは、入団兵や、工場勤務のものたちばかりだった。

彼は幼い頃から一等車が好きだった。一等車に乗る客の、品の高いのが好きだった。金遣いもよかったし、華美でない質のいい生地で拵えられた衣服が好ましかった。親や周りの大人たちに、帽子や手袋を強請っては、「まだ早い」と笑われながら、それでも質のいいお古を貰ったのだった。食堂での賑やかなのも好きだった。何より自分の走る景色の中に、笑う人達がいるのが彼にとって一番嬉しいことだった。一年前には、決戦非常措置要網によって、一等車・寝台車・食堂車は全廃されていた。客は口を噤んでいた。笑い声はほとんど聞こえなくなってしまった。乗り合わせた兵隊に気を遣えというお達しだったのだ。若い鉄道員のほとんども戦争に連れていかれ、老いた職員が鉄道を率いていた。

「女が軍事教練をしているのを見に行こう」と”呉線”と”宇品線”に誘われ、広島の町にでた。何度も空襲を受けた町は瓦礫ばかりで、その中を歩く人の姿には力がなかった。それとは裏腹に駆けていく彼ら二人はこの戦時下を愉快に感じているところがあった。多くの兵隊と常日頃一緒にいるかららしかった。町から離れたところでひっそりと、戦時下の貧しさを噛み締めている山陽には彼らの明るさが不思議だった。この状態に終わりが来るのだとしたら、一体どんな終わり方をするのかという彼の想像は、いつも最悪のものが思い浮かばれた。

島鉄道教習所で、白い鉢巻を巻いた女子生徒達は掛け声に合わせ行進の練習をしていた。こんな姿の若い女を見て何が楽しいのだろうと思った。若い女は食堂車で飯を頬張って、品が悪いと叱られて笑っているぐらいがいい。二等車や三等車で、景色など目に入らないかのようにおしゃべりに夢中で、大声をあげて笑うくらいがよいと思った。今の彼女たちに表情はなかった。何か楽しいことを考えるのを、無理矢理にでも止めようとしている風に思えた。